七の七十倍までも
「七の七十倍までも赦しなさい。」
マタイによる福音の18章21節から35節までに書かれているJesus Christのメッセージです。
今晩、久しぶりに教会の御言葉クラスに参加したところ、ちょうどその箇所が取り上げられていました。使徒ペトロがイエスのところに来て、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と問います。それに対して、イエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と。
解説してくださった神父さまによると、七という数字は、full numberで、「これ以上はない」という意味が込められているのだそうです。日本では、「仏の顔も三度まで」とか言われますが、やはり七という数字は全世界共通に、他の数字とは違う特別な扱いを受けているようにも思います。
イエスの言われた「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」という言葉の意味は、もちろん、四百九十回までというのではなく、赦しの概念は、数えられるものではなく、無制限だということ。そしてこの節は、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるだろう」と締めくくられています。
「赦し」‥。カトリックでは、七つの秘跡の中にも数えられる重要なテーマですが、私にとってはいちばん難しい課題です。今の私は、この半年間ぐらいにあったいろいろなことを、それに関わった人たちのことを、はじめは怒りもあったし、深く傷つきもしたけれども、今ではすべて赦す気持ちになっています。だからこそ、今、厳しくとも新しい道を進もうとしています。でも、逆に、彼らが私のことを赦してくれない。友達であった人さえも離れていってしまった‥。そのことを考えると、苦しくなります。それはやはり、根本的に、私自身が「自分は何も悪いことをしていない」と思っているし(それは本当にそうですから)、だからこそ、彼らを赦しているといいながら、本音の部分ではどうしても赦せていないからなのか‥。とか、もうそんなことは忘れればいいのに、つい、いろんな瞬間に思い出し、頭がぐるぐる回ります。良くないですね‥。
でもやっぱり、それも仕方ない。そういう性格なのだから。それに、そうした人たちのことを考え続けることも大事なのではないか、と今日の講義を聞いていて、感じました。
最初に私が朗読させられた?「シラ書(シラ27・30〜28・7)」は、読んでいて考えさせられたので、自分への戒め?のために、全文を書き留めておきたいと思います。
憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。
罪人にはこの両方が付きまとう。
復讐する者は、主から復讐を受ける。
主はその罪を決して忘れることはない。
隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、
願い求めるとき、お前の罪は赦される。
人が互いに怒りを抱き合っていながら、
どうして主からいやしを期待できようか。
自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、
どうして自分の罪の赦しを願いえようか。
弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、
いったい誰が彼の罪を赦すことができようか。
自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ。
滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。
掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。
いと高き方の契約を忘れず、他人のおちどには寛容であれ。
特に、今の私には、「弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、いったい誰が彼(彼女)の罪を赦すことができようか」というところが、グサっときました。
でも、悩む私に、同じく講座に参加していた人たちは、「そういう時は、ひたすら、神様に、イエズス様に、マリア様にゆだねる。私の心に平穏をお与えくださいと祈ること」とアドバイスを与えてくれました。そうしようと思います。
自分の内面を書いてしまい、長くなってすみません。
マタイによる福音の18章21節から35節までに書かれているJesus Christのメッセージです。
今晩、久しぶりに教会の御言葉クラスに参加したところ、ちょうどその箇所が取り上げられていました。使徒ペトロがイエスのところに来て、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と問います。それに対して、イエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と。
解説してくださった神父さまによると、七という数字は、full numberで、「これ以上はない」という意味が込められているのだそうです。日本では、「仏の顔も三度まで」とか言われますが、やはり七という数字は全世界共通に、他の数字とは違う特別な扱いを受けているようにも思います。
イエスの言われた「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」という言葉の意味は、もちろん、四百九十回までというのではなく、赦しの概念は、数えられるものではなく、無制限だということ。そしてこの節は、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるだろう」と締めくくられています。
「赦し」‥。カトリックでは、七つの秘跡の中にも数えられる重要なテーマですが、私にとってはいちばん難しい課題です。今の私は、この半年間ぐらいにあったいろいろなことを、それに関わった人たちのことを、はじめは怒りもあったし、深く傷つきもしたけれども、今ではすべて赦す気持ちになっています。だからこそ、今、厳しくとも新しい道を進もうとしています。でも、逆に、彼らが私のことを赦してくれない。友達であった人さえも離れていってしまった‥。そのことを考えると、苦しくなります。それはやはり、根本的に、私自身が「自分は何も悪いことをしていない」と思っているし(それは本当にそうですから)、だからこそ、彼らを赦しているといいながら、本音の部分ではどうしても赦せていないからなのか‥。とか、もうそんなことは忘れればいいのに、つい、いろんな瞬間に思い出し、頭がぐるぐる回ります。良くないですね‥。
でもやっぱり、それも仕方ない。そういう性格なのだから。それに、そうした人たちのことを考え続けることも大事なのではないか、と今日の講義を聞いていて、感じました。
最初に私が朗読させられた?「シラ書(シラ27・30〜28・7)」は、読んでいて考えさせられたので、自分への戒め?のために、全文を書き留めておきたいと思います。
憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。
罪人にはこの両方が付きまとう。
復讐する者は、主から復讐を受ける。
主はその罪を決して忘れることはない。
隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、
願い求めるとき、お前の罪は赦される。
人が互いに怒りを抱き合っていながら、
どうして主からいやしを期待できようか。
自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、
どうして自分の罪の赦しを願いえようか。
弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、
いったい誰が彼の罪を赦すことができようか。
自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ。
滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。
掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。
いと高き方の契約を忘れず、他人のおちどには寛容であれ。
特に、今の私には、「弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、いったい誰が彼(彼女)の罪を赦すことができようか」というところが、グサっときました。
でも、悩む私に、同じく講座に参加していた人たちは、「そういう時は、ひたすら、神様に、イエズス様に、マリア様にゆだねる。私の心に平穏をお与えくださいと祈ること」とアドバイスを与えてくれました。そうしようと思います。
自分の内面を書いてしまい、長くなってすみません。
by hirotomo0301
| 2011-09-07 22:26